乗車マナーと公共心

http://d.hatena.ne.jp/sava95/20061102/p3を読んで、東京の人たちに、「長野県民は、乗降マナーがなっていない、自己中が多い」などとぶったたかれたことを思い出す、それは長野オリンピックの時。当時、私は高校生だったのだが、「この東京セントリズムが!!」と思ったとか思ってないとか。


こんな風に「マナーを守っている人」は、公共心がある人だと言われたりする。


違うと思う。


マナーなんてものは、場面場面における知識の総体のようなもので(=状況スキーマ)、大方の人はその枠組みに半分自動的に乗っかっているだけだと思う(「流されている」という意味ではなく、「逆らう」必要性がないから乗っかっているイメージ)。


「乗り降りのとききちんと並ぶ」「降りる人が先」というルールが存在すること自体は、公共心の有無とは関係ない。そういう意味で都市圏の通勤客に公共心が育まれているなどとは思えない。信州の鉄道には「並ぶ」などという文化はないし、「降りる人が先」という手続きもしばしば破られる。だからと言って公共心は関係ない。そもそも長野県においてはその程度の枠組みに乗っかる必要性自体がないのだ。


「行動」を手がかりに「内面」を透かしてみるのは賢くない。文化によっては、その「内面」が発現しない例などいくらでもある。そのような「行動」ばかりを基準にしていると、それこそ「自文化中心主義」のラベルを貼り付けられかねない。



※あくまで「公共心」なるものがあればの話。